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いやさかの山河(中山開拓の今)

2015.05.03.15:08

筑波山にほど近い山中に、戦後拓かれた中山開拓があります。過日、久しぶりに訪れる機会があり、20年前に取材をした細野富子さんの屋敷跡に立ちました。生前細野さんは、私が死んだらこの土地は市に寄附して、有効に活用してほしいと言っていました。
数年前に細野さんは亡くなり、その言葉どおり広大な敷地は市の所有地になりました。
八郷盆地を見下ろすすばらしい眺望と澄み渡る空気、環境は昔とそう変わりませんが、雑草が周囲を覆いはじめています。
細野さんは「子どもたちの自然体験の場になればいいかな」と言っていましたが、どう使うかは多くの意見をもとに英知を結集し、その遺志も大切にしたいものです。
ひとまずは、この土地がどんな由来があるのか、20年前の「いやさかの山河」をたどってみましょう。
長文です。

いやさかの山河 そのI
=中山開拓の今昔=

一、中山開拓の気になる家
 八郷町南端の不動峠。そこから1キロメートルほど下った中山開拓の一角に、気になる建物があった。
 それは、林道の最も高い地点に建ったしゃれたログハウスで、その広い前庭には山と積まれた薪材があった。その傍らには澄んだ湧き水をためておく池がある。四駆のワンボックスカーと乗用車、トラックが敷地内に駐車していた。家の背後には別荘風の家屋が二軒あり、道を挟んでもう一軒が建っている。
 休日の昼間にそこを通ると、当家の主人らしき男性が黙々と薪割りをしている姿をよく見かけた。
 どんな暮しをしているのだろう。どんな家族が住んでいるのだろう。そんな好奇心に加えて、この家の住人が人家まばらな山中に、どのような生活を求めて移ってきたのだろうという興味があった。
 というのも、戦後開拓事業の一つとして誕生したここ中山開拓の歴史的経過を考えるとき、入植者以外の新たな住人はこれまでにない存在なのである。
 異国風の丸太の家と山並みの眺望が、アルプス地方やカナダの山間部にでもいるような錯覚を生みだしていた。
 そこは、「上人入」という仏教的地名のついた場所であった。
 三月半ば日曜日の昼下がり、私はその家を訪ねてみた。傾斜地を上り、木の階段を登っていくと、上品な感じの玄関のドアがあった。ガラス窓から見える室内には、高級な調度品がいくつも置かれている。
「ごめんください」と大声で来訪を告げ、ドアのノブを回してみるとカギが掛かっている。もう一度声を上げてみたが、応答はなかった。私は諦めて、再度来訪したい旨を書いたメモを入口に置いてそこを出た。
 ログハウスの主人の情報は、思いがけない所で知ることができた。
「ああ、奥井くんならよく知ってるよ。彼は保険会社に勤めていて、デンマーク出身の若い奥さんと二人で暮している。確か、ご両親は満州からの引揚げ者だったと思う。年齢はあなたぐらいかな」と、土浦の出版社の社長と話しているときに、偶然そのことが話題に上った。
 ご主人は奥井という姓で、四十歳代前半の会社員だった。土浦市出身だが、山暮しをするためにこの地に土地を求め、平成五年十月から住んでいるという。
 電話帳で調べると、奥井雅之という名前が載っていた。
 その夜、電話をしてから再び奥井さんのログハウスを訪ねた。
「ここは、静かで暗いから、住み良いですよ」と間ロー番、奥井さんは言った。室内を支配しているのは、ランプのような薄明かりの電球と家具調のステレオから流れる静かなクラシック音楽だった。テーブルの背後では、薪をくべた暖炉がゆったりと燃えている。
 窓の外は穏やかな闇と静寂が広がり、かすかに山並みの稜線が見えた。
 奥さんが紅茶と焼き立てのパンを持ってきた。薄明かりの中で見る整った横顔としなやかな仕草は、映画の1シーンを見るようだ。
「すぱらしい雰囲気ですね。静けさと暗さが、これほどくつろぎを感じさせるとは」私は深い感動を覚えてつぶやくように言った。
「私もデンマークの田舎育ちですから、本当に落ち着きます」と流暢な日本語で奥さんは答えた。戴いた名刺には、「マリフレデリクセン奥井 英会話教師」とあった。
 早春の雑木林が揺れ、かすかに風が渡ってゆくのが分かる。
 満ち足りた時に包まれた理想郷とは、このような時間・空間をいうのだろうか。
 私は唐突に、かつて「乳と蜜の楽園」を目指した満州国の広大な開拓地を思い浮かべた。百五十万人もの日本人が、理想の新天地を夢見て渡った中国大陸の東北部のことである。総面積百三十万三千平方キロという日本の三倍近い広さの満州国は、昭和七年三月に誕生し十三年後の敗戦と共に忽然と姿を消した。
 しかし、この新国家には多くの日本人の夢と希望とが託されていた。国策に乗せられて大陸へ渡った人々は、王道楽土・五族協和のスローガンのもと、開拓者精神といやさかの夢を紡ぎはじめた。
 六十年前の人々が描いた大陸での生括とは、このような暮しではなかったのか。ゆったりとした時が流れ、豊かさと安らぎに包まれた生活空間……。
「ここに住んでいて、不便を感じることはありませんか」私は沈黙を破って、二人にたずねた。
「二人とも車がありますから、不便は感じませんね。土浦まで十五分ぐらいですし……」と奥井さんは笑顔をみせる。薪割りを終えて一息ついたばかり、Tシャツー枚の彼のたくましい上体からはまだ熱気が立ち上っていた。
「ちょっと大変なのは、大雪のときと急病のときでしょうか」と私は思いを巡らせた。
「私の車は四駆なので雪道は平気だし、急病のときも二人だから大丈夫でした。
 しかし、一人のときの事故や急病は大変ですね。彼女がデンマークヘ帰っているとき、作業中に谷へ落ちてしまい、動けないまま雨に打たれていたことがあります。幸い一時間ぐらいして脱出できましたが、それ以来一人のときの作業は気をつけています」
「ほんと、一人のときは要注意ね。でも、細野のおばあちゃんは、一人で十何年もここで頑張ってきたのだから驚いちゃう」と感心しきった奥さんの言葉に、私はうなずいた。
「細野のおばあちゃんは、すごいね」と奥井さんも唸るように言った。

二、細野のおばあちゃん
 奥井さん夫妻が尊敬と感嘆とをまじえて名前をあげた細野のおぱあちやんとは、この中山開拓に住む隣人・細野富子さんのことである。
 明治四十四年、細野さんは古河の製糸工場を経営する家に生まれ、昭和十年、二十五歳のとき二つ年上のご主人・喜平さんと共に満州へ渡った。
「弥栄村へ入植し、その年の八月三十日には霜が降りて、小豆・トマトが枯れたように変色していました。その直前に、ハルビンの写真館で取った写真がこれです」と細野さんは家の奥から写真を取り出した。セピア色に変色した映像が、六十年もの歳月を物語っている。
「満州では、ちょうど十年間がんばりました。乳牛の飼育と白楊というネコヤナギの一種を栽培して生計を立てました。私たちの団は、借金をしないという方針を立てていましたので、家を建てるために夢中で働きました」と語る細野さんの一家は、やがて大望の新居を構える。
 しかし、皮肉なことに新築後ほどなく、敗戦となる。
「私は戦場へ向かう夫と別れ、一人息子を連れて引き揚げました。もちろん家や家財、耕地などはそのままでした」と無念そうに細野さんは述懐する。文字どおり命からがら引き揚げて、満州大陸には夢の抜け殼がそのまま残された。
 引揚げの悲惨さは、多くの体験談や小説によって語られている。細野さん一家も同様の軌跡をたどり、昭和二十一年十二月にご主人との再会を果たす。
「五箇村の主人の実家に世話になっていたのですが、次第にいづらくなってきました。つてを頼っているうちに、翌年の一月にハ郷町の中山開拓へ入植することになりました」
 帰国した細野喜平さんは、すばやく行動を起こした。弥栄村での過酷な労働と辛酸を極めた引揚げ体験とを忘却の小箱に押し込め、細野さんたちはふたたび新たな楽園づくりへと着手する。
「私たちは、この一町歩の土地にお茶とミカンの木を植えました。もちろん、他の土地を見たり土地柄を考慮したりして、研究を重ねた末にです。
 ここは、見てのとおり東向きの傾斜地でしょう。平らなところは一つもありません。屋敷と道を平らにするのに唐グワとスコップを使い、カマスのモッコで土を運びました」すべてを自分たちの力で行ったという自負が、細野さんの言葉には表われていた。
 実直なご主人と働き者で機転の利く富子さんとの連携が、お茶とミカンの楽園を確実なものにしていった。敷地内に製茶工場を建て、近隣で摘まれたお茶の葉を緑茶に仕立てる。細野製茶工場で作られた香しいお茶の評判は、湯気のように広がっていった。
「細野さんのところのお茶は、本当においしかった。私も舎弟もお茶好きだったので、そのお茶の大ファンだった。役場でも、細野さんのところから取り寄せていたっけなあ」と回想するのは、弓弦在住の女房の伯父・萩原力だった。
 話に出てくる舎弟というのは、パプアニューギニアの農業指導員となり戦後帰国した義父・萩原久芳のことである。細野さんの製茶工場で作られた茶を好み、摘んだお茶を毎年のように運んでいた。満蒙開拓ゆかりの内原町・日本国民高等学校を卒業し、研究生となって満州開拓の父・加藤完治の
薫陶を受けた義父が、同じくその精神を受け継いだ細野喜平さん一家に共感を覚えたのも容易に推察できる。
 茶摘みの季節になるとハ郷の村々で採れたお茶の葉が、馬の背に乗せられて細い山道を登ってくる。この時期、細野さんの製茶工場は祭りのような騒ぎとなる。焙烙を熱するために薪が燃され、笠をかぶった煙突からは一日中煙が立ち上った。もちろん、そこで働く全員が徹夜作業で、工場は一晩中ランプの光で明るかった。
 昭和四十年一月十五日、中山開拓に電気の灯がともった。電化によって工場が機械化され、二年後に林道が開通した。そのころから、細野さんの生活環境は次第に整備されてくる。と同時に、製茶工場も軌道に乗り、細野さんたちは「いやさかの山河」の入口にたどり着いたかのようにみえた。
 しかし、昭和四十三年に製茶工場の働き手である長男が急死する。
 そして、十二年後の夏に夫の喜平さんも急逝する。
 「主人の死因は心筋梗塞、七十歳でした。息子に先立たれたり、老夫婦だけの作業だったり、心労と過労が積み重なったのだと思います。私は主人の死を眼前にして、しっかりしなくてはと自分に言い聞かせました」細野さんの口から、辛い思い出が昨日のことのように語られた。
 葬儀を終えた細野さんは、ある決心をする。それは、ご主人の偉業をしのぶ「拓魂碑」を敷地内の高台に建立することと、これまでの貯えの中から百万円を町に寄付することだった。
 細野さんは、葬儀を終えて数日のうちにハ郷町の社会福祉協議会に百万円の寄贈を行った。さらには、碑文を綴り大増の石屋さんに石碑の製作をお願いした。すばやく、かつ揺るぎのない行動だった。
「葬儀の間中、私は毅然とした態度でいようと心掛けました。だって、取り乱したところで、始まらないでしょう。近所の人は多分、なんて冷徹で気の強いばあさんなのだろうと思ったでしょう。私は、最後の最後まで冷静に応対しました。葬儀が終わり、近所の人も親戚の者も帰り、たった一人になって私は廊下に座りました。
 周囲には誰もいないことを、確認しました。
 そして、そこで明け方まで思いっきり泣き続けました。大きな声で、身体中の悲しさをすべて振り絞りました。
 泣いて泣いて、泣き続けて、思いっきり声を上げているうちに、東の空が明るくなってきました。太陽の光が見えてきたら、私の気持ちはすっきりとして、さあ今日からがんぱるぞという気持ちが湧いてきたのです」細野さんは一気にそう語った。

三、戦後開拓のイバラ道
 細野さんが建立した「拓魂碑」は、個人が建てた碑にしてはかなり大きい。正面の幅が約四メートル、奥行きが三メートルもあり、その中央に鎮座する黒御影の碑文石は台座にのってニメートル以上の見上げるような高さだ。正面には「拓魂」という力強い文字が刻まれ、その裏側には夫・喜平さんの歩みが記されている。

細野喜平の歩み
 昭和七年十月 国策遂行の志を立て 第一次武装移民として渡航し祖国のため銃を左鍬を右にと命をかけ旧満州国三江省樺川県弥栄村建設の先駆者として極寒の異境で奮闘していたが 昭和二十年八月世界第二次戦争の終戦によりシベリアに抑留。
 幸運にも昭和二十二年一月十六日郷里五ケ村に復員したが 疲れをいやす暇もなく 土に生きる根性捨て難く茨城県新治郡ハ郷町中山のこの地に開拓者として入植した
 この中山は篠と藤蔓に被われた平均三十度の傾斜をする国有林で 飢餓にたえながら一鍬一鍬をきりひらき同志と共に人里離れたこの地に適する作物は何かと数年悩んだ結果 昭和三十五年ごろお茶の生産が最良と決断し幾多の辛酸をなめつヽ 父子の精魂を傾注して研鑽を極め一万平方米以上の茶園を完成させ 製茶の技も磨き地域周辺の利便に供した
 ただ 一人息子に先立たれ老夫婦での労務も影響してか 昭和五十四年七月十三日突然の心臓失患により薬石効なく急逝する
時に七十歳夫の偉業を偲びつヽ記す
        昭和五十五年五月十日
         妻細野富子之建
 これが碑文の全文である。万感の思いを込めた文章の中から、戦後開拓のひとかたならぬ苦労と、家族が一体となって生きた事実とが読み取れる。荒れ果てた傾料地を「飢餓にたえながら」開墾するという一節は、開拓当初の労苦の凄まじさを物語っている。現代日本の庶民生活で飢餓という言葉は死語に等しい概念なのだから、その状況は想像の外にある。
 入植後十三年目にして、お茶の生産を選択し茶園の経営が軌道に乗る。最適作物の模索とお茶生産の試行錯誤には、「幾多の辛酸」が立ちはだかっていた。それらを家族で乗り越えたところに、広大で美しい茶園が待っていた。
 細野さんは、往時を追想する。
「その当時、コンニャク玉を作って、石岡の金山豆腐店に卸していました。たくさん作って質の良いものを選び、十分に乾燥させてから出荷しました。うちのコンニャク玉は、長持ちして品質がいいというので、豆腐屋さんは倉庫の奥に置き、よそより高い値で買ってくれました」
 コンニャク玉の生産は、細野さんにとって主たるものではなかった。しかし、このエピソードからも、細野さん一家の姿勢がうかがい知れる。土地に生き、土と太陽エネルギーの間に自らの創意を注入し、良質の作物を生産する。この積み重ねによって、細野さんの美しく生命にあふれた茶園が育っていった。
 お茶畑の背後の傾斜にはミカンの木が植えられ、深緑と澄色に彩られた絶景の楽園が出現する,ハ郷盆地を見下ろす高台に広がる「茶と果樹の楽園」は、かつて満州に夢見た「乳と蜜の楽園」に匹敵するものではないだろうか。
 開拓入植後、飢餓と辛酸を経てついに見えてきた「いやさかの山河」だった。
 戦後の混乱が落ち着きはじめた昭和二十六年、茨城県農地部開拓課は開拓六周年記念の開拓祭を開き、その事業の一環として記録誌『開拓の成果』を出版している。記録誌のはしがきには、
「これは茨城県開拓六ケ年の記録の一部である。我邦未曾有の変革期に処して、茨の途を切り拓き打ち建てた、県開拓業績の数頁である」と当時県開拓課長だった真家耕三さんが記している。
 この記録によると戦後開拓は、「敗戦による日本農業の窮乏と荒廃という破局的段階」に至ったため、「食糧の絶対不足なる不可避の現実に直面せしめ、開拓による食糧自給が再建国家百年の重要国策として」要請された。これまでにない食糧飢饉の原因は、朝鮮・台湾の既耕地の大幅な減少であり、引揚げ者や復員兵などによる飛躍的人口増だったとしている。
 そのような情勢の中、全国有数の農業県である茨城県は、積極的に開拓事業を推し進め国策に即応した。
 まず、友部や阿見の飛行場をはじめとする軍用地が開拓の対象となり、ついで国有地・民有地がその対象となった。終戦直後の入植初期には、旧軍人・被戦災者・失業工員・商業従事者などの戦争被害者がその大半を占めていた。それらの人々は、「農業設計も技術も皆無であり、住むに家なく、食糧なく、農具・肥料・種子・家畜なく、時日を経るに従い手持資金枯渇し、現金収入なく(同書)」多難な状況だった。やがて、人拙者は淘汰され、六年後の時点では農業を前職とする人が六割となり、戦争被害者は一割程度となった。
「中山の開拓は、向陽・西・阿弥陀の三地区に分かれていて、はじめのころは独り者の旧軍人が十人ぐらいいましたね。昭和三十年に近くなって農家約二十軒が残りました」と細野さんは記憶の糸をたどっていく。
 中山開拓は、正式には「小幡更生」といい、旧小幡村に属していた。国有林を切り開き、昭和二十一年に十世帯、昭和二十二年に二十世帯が入植した。標高百四十メートルの山間部に人口百余人の村が誕生し、昭和三十年ごろにはその三分の一が山を下った。
「私の家は、向陽地区で、ここには十軒の家がありました」
 細野さんの記憶によれば、向陽地区には細野・広瀬・酒井・島田・中村・板橋・篠山・鈴木・石崎・加藤の十世帯があり、石垣と呼ばれた西地区には藤田・矢口・藤枝・大図一石橋・山中・笠倉の七世帯が住み、阿弥陀地区には有賀・高木・小倉・川上の四世帯が暮らしていた。
「そのうち、鈴木さんと石崎さん、有賀さん、高木さんの四家族は、昭和三十七年ごろブラジルヘ渡りました。今どうしているのか、音信不通で分かりません」
 ふたたび新天地を求めて移住した人たちは、中山開拓での生活に光明を見いだせなかったのだろうか。
 東京オリンピックを目前に控えたころ、中山開拓の人々は繁栄のなかにあった。細野茶園のお茶畑とミカン畑はいっそう輝きを増し、汗まみれで働く細野さん一家は笑顔に包まれていた。
 昭和四十年の電化と二年後の林道開通に加えて、開拓の共同墓地も完成し、集落の文化的生活基盤は次第に整っていった。
 しかし、中山開拓の繁栄は、そのへんがピークだったようだ。昭和五十年代から六十年代になると、開拓の家々は年ごとに欠けていった。急激な過疎がおとずれ、集落の高齢化が始まっていた。日本中の若者が都市を目指し、経済最優先の論理におおわれた時期、中山開拓の《土から物を産みだす》生活のありかたは、すでに社会の潮流から取り残されていた。食糧増産という時代はとうの昔に終わっていて、国家を支えるのは技術と情報と経済の力だった。
 一人息子と夫に先立たれたものの、細野さんは茶園の経営を辞めようとはしなかった。一人でこれまでどおり働き、静岡から製茶職人を呼んで十年間もお茶を生産しつづけた。
「主人が亡くなって十年間働いて八十歳近くになったから、お茶の仕事は区切りをつけました。
 満州でがんばった十年間と、ここでがんばったことは同じ価値があると思います」と細野さんは淡々と語った。
 現在の細野さんの家は、当時のたたずまいを残している。舗装された林道から入り口を上ると、すぐに竹竿のバリケードが道をふさいでいる。その脇の立て札には、《私有地につき無断立ち入りを禁ず》とある。
 さらに坂道を登っていくと、左手に往時のままの製茶工場があり、正面には昭和二十年代に建てられた母屋がある,その右手には、製茶職人の寝泊まりした家があり、それらを囲むようにお茶とミカンの畑が広がっている。
 現在、この中山開拓に住んでいるのは、細野さんを含めて四人である。百人もの入植者がほとんどいなくなってしまったが、開拓の足跡は厳然とある。その最たる証しが細野さんの拓魂碑であり、それを残せたのは茶園の成功があったからといえる。繁栄を導いたものは、中山開拓の土と太陽の恵みであり、さらにこの地に生きた細野さん一家の汗と知恵である。
 つまり、土地そのものが固有の拓魂碑を誕生させ、豊かだった一時代を物語っている。
 砂漠のような風土だったら、ありえないことだろう。

四、紋付の羽織を夢見て
 一人暮らしの細野さんの家には、いろいろなお客さんが遊びにくる。ミカン狩りや山菜採り、おしゃべりや見学、中には拓魂碑の写真撮影など、多種多様の目的でやってくる。小学校の遠足などもあったという。近所の人、大学の先生、若者、親戚、知人と、来訪者の途切れることはない。細野さんは、それらの人を相手に時間を忘れて世間話をする。大声で、陽気に、そして優しく………
 その横顔に、一人暮らしや高齢であることを感じさせるものはない。
「古河の私の生家は、製糸の座繰工場をやっていました。祖父がある時、五霞村中の繭を船いっぱいに買い占めたものの、値が下がってしまい大損害を負ってしまいました。それ以来、家は傾き、私の子供のころは両親はだいぶ苦しい思いをしていました。
 屋敷には、工場と蔵が立ち並び、天長節やお式のときなどはその蔵から母が着物を出しました。そんな家に生まれ育ったので、娘の時代まで鎌も鍬も握ったことがありませんでした。どちらかといえば背が高くスラリとしていて、大きな女は肩身のせまい時代でしたから、雨降りでも草履をはいていました」細野さんが娘時代を回想するとき、口調は楽し気になる。
 古河女子尋常高等小学校を卒業して、東京神田ヘミシン仕事を覚えるため住み込む。
 学校時代は学業・修身ともに最優秀で、小学校の卒業式と高等科二年の卒業式では、ともに総代を務めた。
「当時、卒業式の総代というのは、紋付の羽織を着て卒業証書を受け取るので、私は母にそれを頼みました。
 でも、母は小学生だから普通の着物でいいのよと言って、私の願いを聴いてくれませんでした。最後に《紋付はこの次の時ね》と言ったので、私はがまんしました。
 家計が苦しかったのでしょう。高等科二年の卒業式のときは、その着物を洗い張りして羽織に変身させました。母が着物をていねいにほぐして、作り替えたのです。ほら、この二つの卒業写真を見てごらんなさい。着てるものは違うけど、模様が同じでしょう」
 細野さんが指し示す卒業式の集合写真には、二種類の着物姿が写っていた。確かに、模様は一種類だった。
「私は、卒業式を前にして、ふたたび同じことを母に言いました。でも、母は取り合ってくれません。
 本当は我が子の晴れの日に、親として紋付の羽織を着せたかったでしょう。子供だった私には、そんなことは分かりませんでした。しぶしぶ洗い張りの羽織を着て、卒業式に臨みました」と細野さんは残念そうに言った。
「でも、手に入らなかったからこそ、それが鮮明な記憶として残っているのでしょう。」と私は口を挟んだ。
「そうそう、お裁縫の展覧会があるというので、私も出品したことがあります。友達は新しい生地を買ってもらって作品を縫い上げましたが、私はここでも洗い張りの布地でした。でも、裁縫が得意だった私は、要所をおさえて丹念に作り、出品して金賞をもらいました。
 材料じゃなく腕なのかな、とその時は感じましたね」と目を輝かせた。
「少女時代は、万能選手だったんですね」
「いえいえ、苦労があったからこそ、母の思い出や少女時代の記憶が鮮明なだけ。
 でもねえ、紋付の羽織だけは、本当に着たかったんだよ」と細野さんは繰り返した。

「薪割りは、私の休日の仕事なのです。今日も明野町まで材木をもらいにトラックで行ってきたところで……」パイプをくゆらせた後に、奥井さんはゆっくりと言った。
「明野町では、ガソリン代が大変ですね。灯油代にしたら、暖房はまかなえちやうんじやないでしょうか」と私は感じたことをすぐに口にした。
「灯油は臭いから嫌い。薪はその点、ゆったりと暖まるから好き」と奥さんが答えた。
 私は室内の暑さに気付いて、ジャンパーを脱いだ。
「私、いつ脱ぐのかと思ってたの」と楽しそうに奥さんは笑った。
「外は寒いですが、ここは二十五度ぐらいです」とTシャツ姿の奥井さんも微笑んだ。
 私は、その瞬間に細野さんの家の寒い土間を対比していた。ストーブが壊れたので、新しい石油ストーブを注文したと言っていた。
 この時間、二つの家の温度差は二十度近くあるだろう。その温度差こそ、中山開拓の今と昔を象徴している。
 果たして、細野さんにとって自分の家は寒いのだろうか。
 奥井さんにとって、室内は暑いのだろうか。
 来訪者の私だけが、それぞれを寒く感じ、暑く感じているようだった。
 奥井さんの家を出ると、外気が冷たかった。奥井さん夫妻は戸外に出て私を見送ってくれ
た。
 少し行ってからから、私は車を止め、遠くから奥井さんの家を眺めた。丸太の家が、大きなシルエットを描いていた。
 その向こうの高台には、細野さんの家がある。闇と街の明かりとに縁どられた稜線に囲まれて、丘陵地帯が続いていた。
 私は、その暗がりに視線を投げたあと、目を閉じて細野さんの茶園を想像した。
 見えた。広がっている。大海原のようなお茶の畑が、幾何学的な模様を描いていた。産毛のような若葉が、まもなく来る初夏に備えて待機している。あたりは春の香りがいっぱいに充満していた。
 目を開けると、そのいやさかの山河の光景が、ハ郷盆地の夜景と重なり、シャボン玉のように一瞬に消えていった。
   (今泉文彦 1996年八郷町民文化誌「ゆう」より)
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文京さくらまつり式典

2015.03.23.03:30

文京区播磨坂の沿道で、毎年開かれる文京さくらまつりの開幕式典に行ってきました。
地元の実行委員会と観光協会とが主催で開催するこのまつりは、今年で44回目を迎えます。
44文京区さくら
桜はまだ咲いていないものの、会場はすっかり準備が整っていて、一週間後の28日・29日の歩行者天国の時には見事な花を咲かせそうな気配です。
また、式典前に石川啄木の歌碑除幕式があり、盛岡市の谷藤市長と啄木の親族も見えていました。
啄木碑
この会場である播磨坂は、石岡の殿様・松平播磨守の上屋敷があったところで、それにちなんで名付けられました。道路幅は約40メートル、長さ400メートルの区間に、3列のソメイヨシノの巨木が並んでいます。
式典の会場は、130名の参加者であふれ返っていて、坂巻実行委員長や成澤文京区長の挨拶の後は、立食の懇親会となりました。
私は、文京区の皆様に朝採りの小桜イチゴを提供し、あわせて市の観光パンフレットを配りました。
「石岡って以外と近いんですね」区議会議員の松下純子さんがそう言って、さらにイチゴを頬張りそのおいしさを絶賛してくれました。
「私、イチゴ大好きなんです。今度、石岡へ行きます!」
見たことのある男性と目が合いました。大柄で立派な体格です。
名刺を交換して、思い出しました。
「プロレスラー西村修」現在は文京区議会議員です。
藤波辰巳やカールゴッチの流れを汲む実力派レスラーで、ガンを克服した選手として異彩を放っていました。
西村修ツーショット
「私の政治信条は食育にあるんです。食育は生きる源であり、予防医学にもつながります」
ガンと闘った経験があるだけに、その言葉には重みがありました。
「石岡にぜひお出でください。有機農業が盛んで、食育のヒントがあるかも知れません」
その他、笠間市出身の海老澤敬子議員や末澤観光協会長など、たくさんの方と親交を深め、石岡市を知っていただく良い機会となりました。

お祭りを見に来た方々

2014.09.17.06:09

今年のお祭りは、さまざまな方に出会いました。
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特に中日は、橋本昌・茨城知事をはじめ藤田幸久参議院議員、中川喜久治・土浦商工会議所会頭と駅前のお店で歓談し、
夜になって、藤井信吾・取手市長と中山一生・龍ヶ崎市長、鈴木周也・行方市長、坪井透かすみがうら市長、小林宣夫・茨城町長、狩野平左衛門岳也・元県議などと「お祭りに親しむ会」を開催しました。
県知事は例年お見えになっていますが、そのほかは「石岡のお祭りを初めて見る」あるいは「久しぶり」の方ばかりで、その盛大さと迫力に感動されていました。
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今年は新しい企画として、お祭りを見ながら婚活パーティをしようと、若い男女80名がプラザホテルに参集しました。その内の半数は坂東市から貸切バスに乗り合わせて、お出でになりました。
成立したカップルは、何と15組もあり、総社宮の縁結びの威力を実感しました。

2014石岡のおまつりは最高の人出

2014.09.16.22:08

今年のお祭りは47万8千人という驚異的な人出がありました。
昨年より10万人以上多い数字です。
3日間天候に恵まれたことが、その要因の一つでしょう。
さらには、NHKの「家族に乾杯」で全国放映され、お祭りが魅力的に紹介された影響もあったようです。
街中で出会った人の中には、東京や関東近県、中には九州から来たという方がいて、その大部分が「家族に乾杯」を見て「お祭りがどんなものか見てみたい」と思い石岡市を訪れたというのです。テレビの影響は大きなものがありました。
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また、お祭りを執行する側の努力も、なみなみならぬものがありました。お祭り振興協議会や常陸国総社宮とその氏子会は、入念な準備と打ち合せを重ね、時代に即した品格のあるお祭りのあり方を具現化しました。
観光協会では、ゴミステーションを強化し、ゴミ処理スタッフを随所に配置し、街路のゴミを即座に処理し、お祭り環境の向上に心掛けました。
加えて石岡警察署は、延べ500人を超える警察官等を配備し、安心安全なおまつりの実現に力を注ぎました。
年番・冨田町をはじめとする各町内は、整然と山車・獅子・神輿等を巡行し、子どもからお年寄りまでが楽しく参加するお祭りを実施しました。
魅せるお祭り、あるいは観光としてのお祭りに、また一歩近づいた感がありますが、課題も残っています。
駐車場やトイレ、休憩所など観光客を受け入れる環境づくりもその一つで、観客の目標を50万から60万人に設定すると、当然受け皿をしっかりとしなければなりません。
また、お祭りに参加する側も、伝統ある祭礼を格式ある姿で見せるために、これまで以上に意識を高める必要があるでしょう。
巫女行列
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茨城県を代表するお祭りとして、それにふさわしい印象を保持するためには、街並景観や歴史的環境の保全が求められてきます。
今年は、総社宮へ行く交差点の一角にかつての石岡小学校の校門だった「陣屋門」が立ち上がりました。これが完成すれば、またひと味違う歴史的雰囲気が加わってくると思います。
一歩一歩ですが、市民が誇りに思えるお祭りに育てていくことが、石岡市の存在価値を高めていく方策の一つといえましょう。
そんな感想を、お祭りに3日間参加して、肌で感じました。
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地域を耕す会第11回

2014.03.22.22:33

「3月末に水戸で地域を耕す会を行います。日程を開けておいてくださいね」
日本広報協会の渡辺さんから電話がありました。地域を耕す会とは、よりよいふるさとづくりを志す全国の自治体広報マン・ウーマンが集う研鑽と交流の場です。20数年前から、渡辺さんと埼玉県蓮田市の小川さん、私の3人が幹事となって開催してきました。
久しぶりの会で、参加者が少ないのではと心配しましたが、会場には青森から沖縄までの精鋭20名が集結しました。
茨城県からは鉾田の郡司さんと大場さん、行方の久保さんが懐かしい顔を見せてくれました。
参加者の多くは広報紙づくりの実力者たちで、全国広報コンクール特選の実績を持つメンバーも混じっています。
青森県鶴田町の秋庭さんが一冊の本を差し出しました。
「私の尊敬する先輩の本、今泉さんへプレゼントです」
題名は「役人すれすれ日記」、青森県蟹田町で広報を担当した佐藤公之さんが綴った作品集です。
長野県安曇野市の北条さんからは「荻原の昔と今を再発見」という400ページに及ぶ大冊もいただきました。
郷土学習のバイブルとして活用できる力作でした。
福島県須賀川市の山崎さんの熱弁は、相変わらず健在でした。
「首長は、地域を誰よりも愛する人でなければならない。そして、会った人がファンになるほどの魅力を持っていることが求められています」熱い思いが言葉に込められています。
群馬県大泉町の小川さんは娘さんを連れての参加で、可愛いシンガーから励ましの歌声をいただきました。
会合の途中、長崎市から電話が入りました。
広報マンだった長崎市長の田上富久さんからです。
「広報経験者の市長仲間が増えて、たいへん嬉しいです」と田上さんは明るい声です。
今度、全国市長会でお会いしましょうと約束して、電話を切ると、渡辺さんから長崎市長のメッセージが披露されました。
「石岡ふるさと再生プロジェクトの整理の仕方には、広報経験者らしい“伝え上手”さを感じ、さすがだと思いました。ぜひ石岡をもっともっと素晴らしいまちに進化させてください。そのプロジェクトが、いくつもの山や谷を越えてしっかりと前進し、今泉市長の目指すまちづくりが実現することを願っています。
ところで、私は広報担当の仕事にはあまり口出ししないように気を付けていますが、時々アドバイスという名の説教をしてしまうことがあります。広報担当者にとっては煙たい存在だと思います。お互い気をつけましょう(笑)。
……広報紙の表情が自治体ごとに違うように、まちの個性は一つ一つ違います。石岡の個性を、長崎の個性を、精いっぱい伸ばしていきましょう。そして、日本を地方から進化させていきましょう。
日本の最西端、長崎より、心からのエールを送ります」
広報を通じてのネットワーク、本当にありがたいものです。
会合は宴席に移り、広報談義はますますヒートアップしました。
地域耕す1
地域耕す2
地域耕す3
地域耕す4

青森・福島・茨城・埼玉・群馬・千葉・神奈川・長野・静岡・三重・長崎・沖縄と、全国各地から地域を耕す話題が満載のひとときでした。
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