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Good-Bye朝日屋

2011.08.21.17:23

十年ほど前、「茨城のラーメン」という本の表紙を飾ったのが、石岡市金丸町にある朝日屋のラーメンでした。
味はどちらかと言えば淡白で、典型的な中華そば・支那そばタイプ、ベーシックなラーメンでした。
ご主人は、東京立川で修行をし、昭和34年に帰ってきてラーメン屋を始めました。
それまでは肉屋で、昭和のはじめに創業した父親とバトンタッチをしました。
ワラジのように大きいコロッケが肉屋・朝日屋の評判の商品でした。
朝日屋開店
ラーメン屋・朝日屋をスタートさせたご主人は、同じように特徴のあるメニューを提供しようと考えました。
「肉屋だったので、肉の味を生かした麺類を心がけました」とご主人。
「精肉の道具が揃っていたので、出来たんだよ」と控え目です。
ご主人は枝肉からラードを取り、チャーシューを作り、スープを仕込みました。
さすが肉屋のラーメンだと、その味が評判になりました。
朝日屋店内
「最も繁盛したのは、昭和40年代だったかな。忙しかった!」
回想するご主人によれば、精工舎の社員とパチンコのお客さんが多かったといいます。
「近くに緑会館や石岡会館、センター、リボンといったパチンコ店があったから、特に雨っぷりの日は多かった」
ここ10年は、ネットを見て遠くから来るお客さんも増えていました。
3年前からは、奥さんが体調を崩し、ご主人が一人でお店を開いていました。
しかし、一人では限界もあり、近所の火事や大震災をきっかけに営業を終えることを決心しました。
「最後の3年は、一人でよくやったと思いますよ」とは、復調した奥さんの実感のこもった言葉です。
「こうして、この6月まで四十数年やって来られたのも、お店に来てくれた皆さんのおかげです。本当に感謝申し上げたい気持ちです。ありがとうございました」
ご夫婦そろって、感謝の言葉を述べていました。
朝日屋のたどった足跡は、石岡中心街の歴史のヒトコマでもありました。
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いしおか駅前物語

2011.08.20.20:32

昭和38年の住宅地図を、やっと手に入れました。
眺めているだけで、Alwaysの世界にタイムスリップしそうです。
国鉄常磐線・石岡駅の界隈は商店ばかりでなく工場や倉庫、学校・官公庁、娯楽施設などがひしめいていました。
駅前のトヨタレンタカーのところには、明治乳業の集配所と常南酪農の処理工場がありました。
八間道路をちょっと上ってゆくと、石岡警察署と消防署が向きあっていて、その脇には石岡柔剣道場。
近くには石岡ドレスメーカー女学院や吉川技芸高等学校、映画館・東宝劇場がありました。
コピーを持って駅前の佃煮・飯田屋さんを訪ねました。
「いやぁ、懐かしいね。おかめ湯があるよ」とご主人は地図に目を凝らします。
「そうそう、駅の真ん前に七会屋旅館があって、一件おいて矢口自動車工業、横川観光がある」
「間に桜井健郎という家がありますが?」と私は口を挟みました。
「ん、これは、そうか、警察署長の官舎だ」駅前の一等地に署長宅があったようです。
病院も多く、石岡協同病院、幕内外科医院、金丸医院、飯田医院、根崎医院の名が見えます。
「とにかく当時は賑やかだった。この駅前の狭い地域に何でもあった感じだね」とご主人は回想します。
その当時の駅前の写真です。
30年代の駅前

そんな話をうかがった後、昼食をとろうとラーメンの朝日屋に寄ってみました。
入り口には張り紙がありました。
震災等の関係で、6月末で営業を終了致します、とありました。
石岡の代表的ラーメン店が消えてしまいました。残念です。

のらネコちゃん

2011.08.19.10:06

「食費が毎月嵩んで大変だわ」ネコ缶の山を前にして女房はため息をつきました。
人間の食費ではありません。
現在,飼いネコは5匹。
年齢順に、ガチャコ♀、コナツ♀、サザエ♀、アスカ♂、ホタル♂というラインナップです。
表札にこの5名の名を表示したいと、女房は真剣に考えています。
オスのアスカとホタルは食欲旺盛で、ネコ缶の消費アップを加速させています。
悩みの種は、闖入者ののらネコたち。
3匹は確実に居て、ネコ餌を掠めとります。
しかも、あるだけ食べて消えていきます。
彼らも生きるのに必死です。
このネコたちを加算すると、10匹近いネコに餌を与えていることになります。
食費が嵩むわけです。
今朝も,一匹のらネコちゃんが餌を食べ終えたところでした。
のらネコちゃん

カメラを見つめるオドオドした目。
かわいそうで餌をたっぷりあげたいところですが、よく考えると自分の食べ分にも影響します。
ネコを取るか、自分を取るか。可愛い表情とその仕草をみると本当に迷ってしまいます。

お盆の出来事(後編)

2011.08.15.21:15

「CT、MRI共に異常なしですね、脳の障害はありません」と専門医の診断がありました。
この日はお盆休みで、先生は休暇を返上し、わざわざ駆けつけてくれたのでした。
「となると、考えられるのは前腕の神経圧迫です」先生の視線が迫ります。
「どんな格好で寝ていました?」
「確か、左腕を枕にして寝ていたことをうっすらと覚えています」と私。
「それだ、その状態で前腕の神経を圧迫していたのです」
先生によれば、完治するのは早くて数日、遅いと1カ月以上かかるといいます。
「結局、寝相が悪かったのですね」先生のダメ押しでした。
ビタミン剤をもらって、病院を後にしました。
車の中で、女房もホッとした様子です。
「ンとに、いつも大袈裟なんだから。でも今回は良かったわ」
「悪いね、いつもお騒がせして」平身低頭、平謝りです。
そのうちに、夕方になり、今日は送り盆です。
清凉寺本堂


菩提寺の清凉寺は、提灯を持った人々が往来し賑やかです。
昨年9月末に完成した荘厳な本堂が夕焼けに包まれ、ゴージャスな空気を漂わせていました。

お盆の出来事(前編)

2011.08.15.15:39

お盆に入って、長男と長女がそれぞれ東京と千葉から帰ってきました。
ともに仕事で忙しい毎日を送っているようです。
二人の大好物はおばあちゃんの作った手料理で、この日もボタモチを幸せそうに食べていました。
満腹になった長男は、ゆったりと昼寝。
長女はどうしたのかなと思っていると、庭からボールを打つ音が聞こえ始めました。
母娘のラリー、炎天下にもかかわらず相当激しい応酬が続きます。
母娘のラリー

母親はママさんバレーの現役選手、娘は数年前まで大学のバレーボール部の選手でした。
一息ついたところで、訊いてみました。
「どっちが上手いの?」
「それは、もちろん若いほうよ」と母親は素直に認めました。
そうこうするうちに夕方になり、新盆の友人宅で飲み会です。
酒席は数名の仲間との論談で大いに盛り上がり、帰宅は午前様でした。
そして、朝5時。左前腕の異様な感覚で目を覚ましました。
しびれて動かないのです。
一瞬、大相撲の大鵬親方が脳梗塞になった朝のエピソードを思い出しました。
胸に太く重い物があった。それが自分の動かなくなった片腕だったというのです。
「大変だ、これは早く病院へ行かなくっちゃ!」女房を起こし、市外の総合病院へ向かいました。
もちろん女房の運転で、助手席に乗った私はシェーバーでヒゲ剃りを始めました。
しかし、思うように手が動いてくれません。
病院に着き、救急受付から入りすぐに診察。まずはCTとMRIを撮りました。

気仙沼を訪ねて(その3)

2011.08.04.06:56

水山養殖場をあとにして、再び気仙沼市内に入りました。
驚くべき光景が延々と続きます。
その一つ、魚町の酒屋さんは3階建ての看板建築でしたが、ご覧のとおり3階部分だけが残されていました。
男山の3階

港周辺は跡形もなく、数年前にここで撮った漁港の繁栄ぶりが夢のようです。
気仙沼にて

帰路は、仙台に寄り仙台空港周辺を見てから高速に乗ることにしました。
気ままに出発した旅ですが、重い空気がのしかかっています。
空港周辺は平坦な地形で、じわじわと津波に襲われ一面が泥沼と化した地域です。
リアスの入り江は、津波にドーンと突進され圧倒的な引き潮の力で破壊されました。
こちら、海岸沿いの平坦地は、海水に包み込まれ侵略された感じで廃墟となっていました。
そこで見た、ガソリンスタンドです。
破壊されたガソリンスタンド

消防の点検が行われていました。
住宅地の庭には、高校の卒業アルバムが落ちていました。
放置された卒業アルバム

すぐ脇にはクリアファイルに料理のレシピが見えます。
大事な写真が放置されているということは、この家の人は津波の犠牲になったのかもしれません。
小さなシーンからも、災害の大きさが読み取れます。
犠牲になった方の冥福を祈るとともに、被災された皆様に心からお見舞い申し上げます。
(了)

気仙沼を訪ねて(その2)

2011.08.03.05:24

畠山さんの水山養殖場は、壊滅的な状態でした。
カキとホタテの養殖を、唐桑町西舞根の入り江で行っていましたが、そこを津波が根こそぎさらっていきました。
住んでいる家族は全員無事でしたが、港に近い老人施設にいたお母さんが津波で亡くなったそうです。
「大震災当日、京都大学の学生さんたちがここにいて、仙台空港への途中津波に襲われて4人亡くなりました」
家は20mほどの高台でしょうか、その下まで水は押し寄せました。
畠山さんと

傾斜に生えた樹木の枝に、ロープやガラスの浮き球がいくつもぶら下がっています。
「あの大地震で、地盤が1mほど沈下しました。満潮時には、通路が水浸しになるんです」
沈下したのはこの場所だけではなく、太平洋沿岸のすべての地域だそうです。
「あと数時間で、あの橋は水没します。帰れなくなりますよ」と畠山さんは笑いました。
入り江は、穏やかな水をたたえていますが、民家が点在するかつての光景はありません。
西舞根の入り江

塩水を吸ったスギ・ヒノキは赤い葉に変わり、枯れ始まっています。
養殖場の辺りでは、あとを継いだ息子さんたちが重機で作業をしています。
「恒例の植樹祭は無理だと思っていたんだけど、息子たちのおかげで実現できました」
若者たちのパワーが、復旧を押し進めています。
津波で外壁をはがされた作業場ですが、そこには新しいロープの束が何百と重なっていました。
「これをすべて購入したんです。船や冷蔵庫もこれから揃えなければなりません」と語る畠山さん
試算すると、復旧には約3億円もかかるそうです。
「あの、これ少しばかりですが、石岡の5人からの義援金です」と封筒を手渡し水産場をあとにしました。
復旧から復興へ至るには多くの課題が横たわり、何年もかかりそうです。
60代後半の畠山さんにとって、一筋の希望は地元に残った3人の息子さんの存在のようです。

気仙沼を訪ねて(その1)

2011.08.02.21:33

宮城県大崎市古川に住む「道鏡を守る会」の本田会長に電話をしました。
「気仙沼の畠山重篤さんの所へ義援金を届けに行くのですが、先生はご自宅にいらっしゃいます?」
「ああ、その日はちょうど気仙沼の知人を訪ねていくので、気仙沼で会いましょう」
午後1時に、市内の鹿折小で落ち合うことになりました。
その場所は気仙沼港にほど近いところで、約束の時間に向かうと、港周辺の凄まじい光景に圧倒されました。
気仙沼1

とてつもない破壊力で、津波が街並をのみ込み、凶暴な爪痕が随所に見られました。
今も粉塵が空中に漂い、異臭がさまよっています。
数階建てのビルが木の葉のようにさらわれ、巨大な船が無惨な姿で街路に打ち上げられていました。
気仙沼2

至る所で復旧の工事が行われ、ダンプカーや重機が忙しげに動いています。
機動隊の車が5、6台も広場に待機し、民家跡では何人ものボランティアが作業をしています。
破壊と復活とが同居する渾然とした空間でした。
小学校へ到着すると、本田先生が笑顔で迎えてくれました。
気仙沼3

「この小学校では、地震後帰宅する児童が4人、津波の犠牲になったようです」無念そうにおっしゃいました。
「そうそう、畠山さんにこれを渡してください」とスポーツドリンク一箱を差し出しました。
畠山さんは、気仙沼市唐桑町でカキ養殖を営む漁業者で、良質なカキをつくるため山に木を植え続けています。
その活動が注目され、「森は海の恋人」のキャッチフレーズで全国的に有名な人です。
講演をお願いし、石岡にも来ていただいたことがあり、長年の知人でもあります。(以下、その2へ続く)

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