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「あした会えるさ」取材秘話(その9)

2012.01.31.05:44

鹿島鉄道オリジナル

「私だったら、鹿島鉄道の日報を探して、その記録からコロ(タロー)が乗った日などを探るね」
取材を進める中で、知人の作家からアドバイスをちょうだいしました。
「半世紀前の記録が残ってるでしょうか」私は半信半疑でした。
「それが取材でしょう。誰でもできることなら、発見はなにもないですよ」
そうか、鹿島参宮鉄道の業務日報か。あたってみるか。
どこへ問い合わせしたらいいのか、私は考えを巡らせました。
その数日後、お葬式の席で鹿島鉄道の専務だった人を見かけました。
私は、さっそくその人の家を調べました。
行きつけの酒店でお酒を買いながら、その店主に訊ねました。
「かしてつのAさんの家はこの近くですか?」
以前に、その店主がAさんと同じ町内会だと話していたことを私は覚えていたのです。
「ああ、国道を渡って月天様を過ぎた先の住宅地だよ」その言葉をヒントに、住宅地図を調べました。
確かにAさんの家があり、その住所から電話帳で連絡先を見つけ、連絡しました。
しかし、電話は空振りでした。Aさん宅を訪問すること3回、やっと話を聴くことができました。
「あら、今泉さん。お久しぶりです」日当たりの良い庭先で、植木の手入れをしていました。
「今日は昔のことを教えてもらいにきました」私はiPadを取り出しながら、言いました。
iPadでタローや当時の駅の写真を示すと、Aさんの反応がすぐにありました。
「ああ、この犬ね。駅でよく見かけたね。写真も飾ってあったし……」懐かしそうに写真を眺めています。
「そうね、当時のことを知っているのは、この近くに住むBさんかな。彼は社史の編纂をやっていたから」と言いながら電話をかけてくれました。
「あ、出かけてる。戻りは2時頃ね、また電話します」ご本人がいなく、再度出なおしとなりました。
午後、再びAさん宅を訪問すると
「Bさんに訊いたら、当時の記録はもうないそうです。それで当時の社長だったKさんに電話してみましょう」
と目の前で電話をかけてくれました。
「お久しぶりです。今泉さん、そのことだったら、TさんとMさんに訊くといいですよ」Kさんと直接話すと、そんな返事が返ってきました。
後日、両氏に電話をかけたものの、10回以上かけてもつながりませんでした。
私はどうしようかと、離れの一室で悩んでいました。本棚を見上げながら考えていると、一冊の分厚い本が目に入りました。
『関東鉄道70年史』と書いてありました。
そうか、これをBさんが編集したのか。そうだ、確か50年史もあったはず。
本棚を探すと、50年史も見つかりました。
本書で鹿島鉄道に触れた部分がありますが、私は聞きとり以外にはこの2冊を参考にしました。
それにしても、業務日誌は幻に終わってしまいました。
どちらかというと、空振りの取材だったでしょうか。
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「あした会えるさ」取材秘話(その8)

2012.01.29.07:46

読者の一人から、忠犬タローの肖像画が届けられました。
美しい額に収められた素晴らしい水彩画です。
さっそく、幼稚園の玄関に飾りました。
タローの肖像2

唯一の写真をベースに絵にしたものですが、額に入ると趣きが違いタローからのメッセージが聞こえてくるようです。
絵を書いたのは岩田正画伯で、長年ふるさとの風景を描き続けている方です。
「タローのものがたりは今の時代、貴重ですよ」という岩田さんですが、多くの方が同じような感想をお持ちです。
「本を読んで、二度泣きました」という声も耳にします。
どこで泣いたかは明かすわけにいきませんが、動物と人間の暖かな関係が心を動かしているようです。
「震災後、いろいろなことが続き、明るいことがなかったけれど、この物語を読んで癒されました」と語る女性は、知人に1冊プレゼントすると追加注文をしていました。
「この物語に子供がふれることで、心が育つでしょうね」とは、善隣幼稚園の先生だった藤株先生です。
かつての園児たちにプレゼントしたいと、大量に購入されました。
発売されてまだ数日ですが、少しずつタローの物語は、心のなかに暖かな火をともし始まっているようです。

「あした会えるさ」取材秘話(その7)

2012.01.28.07:04

東京渋谷区の隈部さんから手紙が届きました。
そこには「あした会えるさ」を読んだ感想が綴られていました。
「本の出来栄えは、大変素晴らしく感動致しました。
私にとって初めて知る情報もあり、とても有益です。
文体・構成ともに非常に読みやすく、よくこんなに上手に制作できたと感心しております。
本を読んでいて悲しくなったのは、タローが無理矢理捕獲檻に入れられて保健所に連れられていく件です。
飼い主とはぐれた上に、首に針金を巻かれたり、保健所に送られたりして厳しい体験をさせられたのだと改めて思い知らされました。
杉本さんの娘さんのお陰で命を救われ、皆にかわいがられて長生きできて本当に良かったと思います」
石岡駅前 (2)

隈部さんは、タローの存在を知って以来、東京から石岡に通いその足跡を追い続けている男性です。
荒川沖の墓地には、毎月通い線香を手向けて、タローの冥福を祈っています。
「石岡を訪れる度に心が落ち着き、ふるさとに返ってきたような気持ちになります。……いずれは石岡に住みたいと切望しております」と隈部さんの思いは、タローから石岡へと広がり、その愛着は深いものがあります。
隈部さんは石岡へ通い市民への聞き取りを行ってきましたが、その情報量は膨大でした。
本書にも、その情報の一部を使わせていただきました。
隈部さんは手紙でこう締めくくっています。
「石岡がタローの過ごした街として、全国的に知れわたる日が一日も早くやってくればと願っております」
石岡に深い愛情を持っていることが伝わってきます。

タローという稀代の忠誠心を持った犬によって、地域に「誇り」が育っているような気がします。
※写真は、昭和39年の石岡駅で、本書に収録したものです。

「あした会えるさ」取材秘話(その6)

2012.01.27.06:14

街の様子を撮った写真というのは、あるようで意外にないものです。
「玉造の駅前通りを撮った写真が、どこかにないでしょうか」私は知り合いの設計士に訊ねました。
「ああ、聞いてみましょう。駅前通りに知人が何人かいるので、問い合わせてみます」とAさん。
しばらくすると連絡がありました。
「写真店のご主人に訊いたら、かつて常陽銀行で街の写真展を開いたので、その時の街並み写真が保存されているはずだというんです。いま、銀行の知り合いに探してもらっていますので、もう少し待ってください」
しばらくして、
「どうもないようです。別のルートで探してみますから……」とAさんは言い、1カ月ほど探してくれましたが、成果はありませんでした。
あるようでないのが、街並みの写真です。
昭和30年代から50年代にかけての、石岡駅周辺の写真もあちこち探しました。
例えば、西友ストアーの賑わっている写真、駅の待合室の写真、駅前通りの写真など、いずれも簡単に手に入ると思っていましたが、見つかりませんでした。
頼みの綱は、新聞記者をやっていた父の遺した「今泉義文写真コレクション」です。大好評だった「いしおか昭和の肖像(再版後に絶版)」でご覧になっている方も多いでしょうが、その本の元になった5000枚の街を記録した写真群です。
「私はあれほどの記録写真を見たことはありません。昭和、特に戦時中を記録したものでは県内随一、全国的にみても貴重でしょう」とは茨城新聞のT氏。同氏は「写真記録 茨城20世紀」の大冊を編集したその道の専門家です。
滋賀県知事の嘉田由紀子さんが琵琶湖博物館の研究員だった頃、「昭和の肖像」をみて絶賛のハガキをくれたことがありました。
その父のコレクションを探してみると、昭和30年代以降の写真が数枚出てきました。
その他にも、「写真に見る石岡の昭和史研究会」が収集したコレクションの中に、数枚ありました。
それらから厳選して、本書「あした会えるさ」に収録しました。
石岡駅前の広場

「街のデパート「コーキ」の写真、どこかにないかな」写真好きの知人が言いました。
「あるようで無いんですよ。今のジャスコやピアシティだって、記録写真を撮る人はなかなかいないでしょうし……」
あたりまえの日常の光景は、時間とともに非日常に変貌する運命にあります。

「あした会えるさ」取材秘話(その5)

2012.01.26.07:27

「あした会えるさ」の表紙にはタロー唯一の写真が使われています。
内山校長先生が、新任教師のときに撮ったものです。
おとなしそうな表情ですが、何かを訴えかけるような目が印象的です。

「この本、うちの子供に読ませたいな」と茨城大学のS教授、タローの表情を見てそう言いました。
「お子さん、いくつなんですか」研究室の女性が訊きました。
「幼稚園の年長なんだ」
「それでは、先生の子供さんが優秀でも、ちょっと早いでしょう」女性は笑いながら付け加えます。
「この本、中学生ぐらいだったら、読めるでしょうね。ルビも振ってあるし、読みやすい文章だし」
「はい、中学生以上を対象に編集してあります」と私は答えながら、カバンから原稿用紙を取り出しました。
「実は、今朝、小学5年生から感想文をいただいたんですよ」
「え、すごい、読んでみたい」

以下はその感想文の抜粋です。

「あした会えるさ」を読んで
5年 佐藤龍弥
この本は忠犬タローが石岡駅でご主人を待っているお話です。忠犬タローの気持ちがよく分かります。きっとご主人様に会ってまた遊びたかったと思います。
でも17年間もよく待つことができたなと思いました。
ぼくなら最初の一年でもう来ないのかなとあきらめてしまいます。
でも忠犬タローは、17年間もあした会えるさと思って、東小学校から駅まで約2kmを雨の日も風の日も歩いてずっとご主人様を待っていたのです。東小では毎日一年生の教室だけ行っていたんだそうです。ぼくにはこの行動は、ご主人様をさがしているのかなと思いました。
タローが17年間待ち続けた人が、東小学校を訪れてほんとうによかったと思います。タローがいれば、
「よかったねタロー」といいたいくらい良かったです。
この本を読んで思ったことがあります。
それは、どんな時でもあきらめないでやると、いいことがおきるということです。

「素晴らしいね、小学校高学年になるとこれだけ感じ取ることができるんだ」とS教授。
「本のメッセージがきちんと伝わっていますね。私も読んでみよう」
研究室ではひとしきりこの話題で盛り上がりました。
山王台交差点 (2)

龍弥くんがいう2kmの道程、当時の6号国道や駅前広場などを写した貴重な写真が、本書巻末に収録されています。

「あした会えるさ」取材秘話(その4)

2012.01.25.06:45

「あした会えるさ 忠犬タローものがたり」本日発売です。
とはいっても、もう店頭に並んでいる書店もあり、読まれた方もいるでしょう。
「感動しました」「何度もウルウルしました」などの感想が寄せられています。

この物語は、上映中の「ALWAYS三丁目の夕日'64」と同じ昭和39年からスタートしています。
およそ半世紀前のことです。
「修三さんは怒りん坊だったんですよ」と回想するのは駅前のそば屋の女将さん。
修三さんとは、この物語の最初と最後に出てくる将棋好きの菓子店主です。
将棋が三度の飯より好きで、店前の歩道で縁台将棋を指していました。
プラタナスの木の下に盤を広げ、夏はセミの声をききながらの対局でした。
トレードマークは、若いころ所属していた海軍の帽子で、いつもかぶっていました。
駅前縁台将棋

写真は、昭和50年代半ば、八間通りで交通安全フェスティバルが開かれた時の歩行者天国の様子です。
路上で将棋を指すその後ろに立つ、白い服の男性が修三さんです。海軍帽をかぶり笑みを浮かべています。
「あんたに期待してる。市民のための人間になれよ」会うたびに、修三さんはそう言ってエールを送ってくれました。
すでに10年以上前に鬼籍に入られましたが、あの人なっこい笑顔は忘れられません。
修三さんの後ろには、常設のゴミ箱があり、天杉・アサクラスポーツの文字と、自転車屋さんの店舗が見えます。
いずれも今はありません。
あたりまえにあった街の光景が、この10年で消えていたのです。
アーケードや街路樹、西友ストアー、鹿島鉄道、いくつもの商店、そして人の賑わい。
駅前通りの歩行者数は、昭和50年代の15分の1近くに減っています。
郊外へ大型店がいくつもでき、まちの賑わいは拡散していきました。

タローの生きた時代は、様々なふれあいが街の中にあふれていた時代でもありました。

ノバウニオン柔術

2012.01.22.08:17

久しぶりに格闘技の話題です。
ヒクソングレーシで有名な柔術を、私は7年間続けています。
力の弱いものが、強く大きな相手を制することのできる実践的な格闘技です。
様々な柔術の団体がありますが、私はノバウニオン・ジャパンに所属しそこの顧問をしています。
代表は黒帯の阿部修さん。本場ブラジルに渡りアンドレ・ペデネイラスのもと修行した尊敬すべき師匠です。
土浦に道場がありますが私はそこの代表で、日常の練習は師範代ともいうべき三枝さんが取り仕切っています。
道場には、若者が集まります。
ノバウニオン土浦

柔道経験者や空手、レスリング、総合格闘技、キックなどあらゆる力自慢がやってきます。
水戸道場の藤原くんも若手を連れてこの日参加し、相変わらず良い動きを見せていました。
藤原くんは、柔道やボクシング(プロライセンス)、打撃の経験があり、小柄ながらそうとうな強豪です。
少し前に、護身術を教えている屈強なブラジル人が来たことがあります。
道場のメンバーを捕まえては、逆関節でギャーギャー言わせて得意になっていました。
スパーリングをしたいというので、私は藤原くんを指名しました。
組んで30秒もしないうち、護身術のブラジル人は三角締めの餌食になってタップしました。
もう一回と望んだブラジル人でしたが、今度も三角締めであえなくタップ。
こんなはずはないと、もう一回やっても、もっと早いスピードで参った。
悔しそうな顔で、帰りながら「けんかなら負けないぞ」と言ったそうです。
もちろん、藤原くんがボクシングのプロライセンスを持っていることなど知りません。
ライセンスを持っている人は、なおさらけんかなどできません。柔術経験者も同様です。
小さな者が、技術で大きな者を制したシーンでした。
この日も、阿部CEOの指導を、若者たちは熱心に謙虚に受けていました。

地域のコミュニティ

2012.01.22.07:38

大震災で屋根に被害を受けた弓弦地区公民館を、地域のみんなで直すことになりました。
その手始めに、屋根瓦の撤去作業を集落総出で行いました。
私は区長をやっている関係から、当日の天気が心配でした。
雪になるという予報、また雨でも足下が滑る。保険に入ったものの、高いところに上るので安心できません。
幸い参加者の多くは、手慣れていて、ましらのようにヒョイヒョイと動いていました。
「21日は公民館の屋根瓦撤去があるので、一日中作業をしています」小桜地区の原田文晋区長会長の電話で、そう答えました。
「公民館て、一日かかるほどの大きさなの?」と原田区長会長は、驚いた様子です。
「ええ、2階建てで足場を組んでやるんです」と私。
「2階建ての公民館とはすごい! どんなに立派なのか見てみたいね」
「はぁ、まぁ、昭和20年代にできた古いものですが……」と私は言葉を濁しました。
戦後、古材を使って米倉を建て、それを昭和34年に公民館に改造したのが現在の建物です。
米倉の天井が高かったので、中央を仕切り2階構造としただけだったのです。
電話で、そうは言えませんでした。
もっとも集落で山を持っていたため、良い材料はふんだんに使っています。
昭和のクラシックな建物の香りが漂っていて、ロケに何回か使われています。
屋根瓦撤去作業

その公民館を、一斉に集落の人が登りました。
瓦をはがし、一枚一枚手渡しでおろします。
当初、作業は夕方までかかると見ていましたが、1時間ちょっとで終了。
次は下地の解体です。瓦桟や杉皮、土を取り除くと、あたりは土ぼこりでもうもうです。
廃棄する瓦は、市の処分場へ4トン車、2トン車で搬入します。バケットローダーも出動し、轟々とエンジン音を響かせています。
すべて地域の人の協力です。
大工さんもいれば、建設業の人もいる、農家やサラリーマン、公務員、芸術家など、様々な職種の人が力を合わせている光景がありました。
作業は無事、2時台に終わりました。
最後は、ささやかな慰労会です。
公民館1階の土間に置かれたテーブルを囲み、集落の人たちの笑顔がそこそこにありました。
作業を終えて

途中、原田区長会長が立ち寄って、公民館を見上げていました。
「ほう、これが弓弦の公民館ですか、2階建てでどれほど立派かと思いましたが、さすがに立派ですな」
笑顔でそう言い「この地域のコミュニティが大事なんですよ」と付け加えました。
みんなで改修した公民館は、胸を張ってそこに立っていました。

「あした会えるさ」取材秘話(その3)

2012.01.21.00:07

タローが亡くなったのは、昭和56年7月20日。
30年も経っていますが、その姿を知っている者にはつい昨日のことのようでしょう。
ご主人を待ち続けたタローのけなげな姿に、涙した人も大勢います。
学校では、追悼集会を行い、タローと別れを告げました。
埋葬されたのは、土浦市乙戸の動物霊園でした。
なぜ、遠い土浦市に墓地を求めたのか、当時校長だった都賀先生に訊いてみると、
「PTAの役員の一人が見つけてくれました。石岡にペット霊園がなく、探しているうちに乙戸にあるという情報が入りました」とその経緯を語ってくれました。
佛生寺

当時その管理は近くの佛照寺が行っていましたが、共有地のため所有権を変えることができず、管理を諦めました。
その結果、ほどなく霊園は荒れ果てて、どこに何が埋葬されているか分からなくなってしまいました。
墓地の入り口に、馬頭観音さまが建っているのが、唯一の救いです。
タローの墓所

住職さんによれば、この墓地にイヌやネコの亡骸が何層にもなって埋められているというのです。
もちろん、タローの墓所がどこなのかは分かりません。
はじめてここを訪れたとき、私は馬頭観音に手を合わせてタローの冥福を祈りました。
みんなに愛されたタローは、観音様に守られて静かに眠っています。
ここでも見るのは、飼い主に出会う夢なのでしょうか。

「あした会えるさ」取材秘話(その2)

2012.01.19.23:17

風前の灯という例えがありますが、タローのエピソードは2年前までそれに近い状態にありました。
歴代の校長先生たちは、そっと思い出を胸にしまっていました。
タローに愛情を注ぎその存在を世に出したのは、橋本千代寿校長です。
現在92歳、今も庭仕事をしていてすこぶる元気です。
橋本校長

タローの資料を保存していて、記憶も鮮明、昨日のことのように東小での出来事を話してくれました。
橋本校長がいたからこそ、30年以上前の物語がよみがえったのです。
年老いたタローが亡くなって、東小で追悼集会を開いたのは都賀晃校長です。
都賀晃校長

かすみがうら市雪入、山間のご自宅を夕方訪問したときは、ご夫婦で居間のこたつに座っていました。
「近年、脚が弱りましてね。でも頭の方は大丈夫、タローのことは覚えていますよ」と、追悼集会や埋葬地のことを教えてくれました。
残念なことに、昨年都賀先生の訃報を耳にしました。
用務員でタローの飼い主だった杉本吉亀夫さんは、探しあてるまでに時間がかかりました。
当時の関係者の話から、東大橋に家があることまでは分かりました。住宅地図で、幼稚園の近くにあるのを見つけ、行ってみると住んでいる気配がありません。
「ああ、杉本さんだったら、病院に夫婦で入院しているよ」と近所の敬さんから情報を得ることができました。
幸い病院の事務長が同級生で、問い合わせると、
「居るよ、元気だよ。ご本人に話しておくよ」と面会を許可してくれました。
病室でお話を聞くと、ポツリポツリと控えめに語ってくれました。
松本さん

誰も知らないエピソードが、いくつも出てきました。
タローが迷い込んできた日のこと、保健所に連れていかれた日のこと、追悼集会の日のことなど。
病室なので、何回かに分けて、少しずつ伺いました。
タローを世話してきた人たちは、いずれも85歳をこえた高齢者になっていました。
しかし、多くの話とタローへの愛情に触れることができました。

東小学校の卒業生の多くは、タローのことを鮮明に覚えていて、語り合ったり、愛唱歌を歌ったりしています。
それぞれの心の中にある思い出として、それは存在しています。
今回、当時の関係者から証言を得ることができましたが、時間的には最後のチャンスだった気がします。
1年遅れていたら、いくつかのエピソードは聞けなかったでしょう。
プロフィール

Great gengorou

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